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「土蜘蛛」の舞台展開

​ここでは「土蜘蛛」を5つの場面に分け紹介します。

写真 平成27年 学生鑑賞能 シテ武田崇史

​撮影 前島吉裕

1、病床の頼光

 源頼光とトモが登場。着座後、胡蝶が登場し頼光が病床にあるため、薬をもって見舞いに来た旨を語り、頼光と面会する。頼光の病状は深刻で今日とも明日ともいえぬ状況で胡蝶は必死に看病する。

★053 芸術鑑賞会(15.06.04)撮 前島吉裕.JPG

2、怪しい法師の登場

 そこへ怪しい法師(シテ)が現れ、「わが背子が 来べき宵なり ささがにの 蜘蛛の振る舞い かねて知るしも」という古今集の和歌を口ずさみ、蜘蛛の糸を投げかける。咄嗟に頼光は枕元にあった愛刀「膝丸」を抜き応戦し、怪法師(土蜘蛛)を見事撃退する。

3、頼光の語

 騒ぎを聞きつけてやってきた家来(独武者:ワキ)に頼光は今あったことを話し、土蜘蛛を追うように命じる。

4、独武者は土蜘蛛の巣を見つける。

 独武者は土蜘蛛の巣を見つけ、塚を崩すと土蜘蛛の妖怪が現れ、土蜘蛛は糸を投げつけ応戦するが、遂に退治される。

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​●ひとこと解説

 土蜘蛛は能の中では妖怪の事を指しているが、古来においては違っていたようである。土蜘蛛は「古事記」や「日本書紀」、各地の「風土紀」にもその名前が見られ、もとは大和王朝に恭順しない異民族の蔑称であり、神武天皇によって討伐されたとされる。土蜘蛛の語源は「土籠り」であるとされ、これらの異民族が土に穴を掘って生活していたことからこの名前が付き、音便化して「土蜘蛛」と呼ばれるようになった。また、能の中では後シテが「葛城山に年を経し、土蜘蛛の精魂なり」と言っているが、現在でも葛城山の一言主神社の境内に神武天皇によって討伐されたとされる土蜘蛛塚があり、土蜘蛛が復活しないように頭、胴、足がバラバラに埋められているという。

 また、京都府にある上品蓮台寺には頼光を祀った源頼光朝臣塚があるが、一説にはここが土蜘蛛の巣であった言われ、ある時樵がこの碑の横の木を伐採しようとしたところ、謎の病にかかってその者は命を落としたという。(下写真)

この頼光の土蜘蛛退治は後世に「土蜘蛛草子」という絵巻物になるが、そこでは話が原典から左記のように変えられている。頼光が家来の渡辺綱と共に歩いていると空飛ぶ髑髏を見つけ、後を追って古い屋敷に入ると様々な妖怪が次々に現れ、最後に不気味な美女と出会う。不審に思った頼光がこの美女を切りつけると白い血を流して逃げて行った。後を追って山中の洞窟まで行くと、大きな蜘蛛の妖怪が襲いかかってきてこれを退治した。その後、この武功が称えられ頼光と綱は位を賜ったというお話である。

 頼光が土蜘蛛に呪われた理由として、父満仲が土蜘蛛族と結託して藤原氏に反逆しようとしたが、土壇場で満仲が裏切ったために謀反は失敗に終わり、その恨みを買い息子の頼光が呪われたという。

 能「土蜘蛛」にて土蜘蛛を退治した武者は「独武者」となっているが、そのモデルは清少納言の兄清原致信であると言われている。能の中で実名をあえて出さないのは土蜘蛛の怨念が清原氏一族に降りかかることを恐れたため、匿名にしたと言われている。また、能に登場する胡蝶は〈蝶〉が蜘蛛の縁語であるため、実は胡蝶は土蜘蛛の手先で頼光の様子を伺いに来たという説もある。

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