「船弁慶」の舞台展開

​ここでは「船弁慶」を6つの場面に分け紹介します。

写真 昭和59年 武田同門会 シテ武田尚浩

​撮影 前島吉裕

1、源義経一行(子方・ワキ・ワキツレ)の登場

 お囃子方・地謡が着座すると、次第という登場音楽によって義経一行が登場し、武蔵坊弁慶(ワキ)が梶原の讒言により兄頼朝と不仲になった義経は都を離れ、西国へと落ちるために摂津国大物浦(兵庫県尼崎市)にやってくる。

弁慶は忍びの旅であるので静御前を伴っての都落ちは人目に付くと、義経に静をここで都に帰すように進言する。義経は進言を受け入れ、万事取り計らうように命じる。

 

2、静御前(前シテ)の登場

 弁慶は静の逗留所へと行き、ここから都に戻るようにとの義経の命を伝える。静はこの命は弁慶が一計を案じたことであり、義経の本意ではないと思い、直接義経の御前に行って返事をすると答え、義経の宿へと向かう。

3、義経との対面

 静と対面した義経は都に帰るように命じ、静は弁慶を疑ったことを詫びる。義経は別れの酒宴を開き、静にお酒を勧めるが静は涙にくれる。

 

4、静は舞を舞う

 別れの舞を所望された静は烏帽子をつけ義経を慰める舞を始める。

「渡口の郵船は 風静まって出づ 波頭の謫所は 日晴れて見ゆ」と小野篁が流罪になった時の和歌を詠じ、義経も篁の様に流罪になっても再び都に戻ってこられると祈った。

そして古代中国の故事を語り始める。越の国主であった陶朱公は臣下の勾践と共に会稽山に篭り、様々な計略を廻らして遂に呉を滅ぼした。この功績は勾践の力が大きかったので、勾践は越の重臣となって思うように政治をすることができたが、勾践は功を立てて退くことこそ天道であると小さな船に乗って五湖を渡って世捨て人となった。このように我が君も京の都を捨てて、西国へ落ち行くが、御身に罪がないことを嘆願なされば頼朝も心を開き再び兄弟の仲は元に戻るであろうと謡い、舞(中之舞)を舞う。

5、出立の時

 静が舞を終えると船頭(間狂言)が船の準備ができたと言い、義経も宿を出ると静は泣く泣く、烏帽子を脱ぎ捨て都へと帰っていった。(中入り)

6、平知盛(後シテ)の幽霊が襲い掛かる。

 義経が船に乗り瀬戸内海を渡っていると、突然雨風が吹き荒れ、波間より平家一門を従えた知盛の幽霊が現れる。長刀を持ち義経を海に引きずり込もうとする知盛に対して義経は刀を抜き応戦し、弁慶は数珠を擦って法力を使う。ついに祈り伏せられた知盛の幽霊は波間へと消えていく。

​●ひとこと解説

 船弁慶は大変華やかで劇的な構成の能です。同じ役者が前場と後場で全く違う役どころ演ずるため二曲分の修練が必要と言われます。能楽師の中ではこの曲が体力的には一番きつかったと言う能楽師も多くいます。
平家物語によれば静はこの大物浦では義経一行に同行して共に難波し、その後の隠れ場所の吉野山にて別れることになっています。船弁慶ではここで「静」と別れたと変更することによって、海が「荒れた」という舞台展開を考えた上での作曲と言われています。また、この船弁慶の後シテの長刀使いは鮮血滴る長刀使いと言われています。

●小書きについて
・前後之替
 前シテの扇が童扇から鬘扇へと変わり、烏帽子が前俺烏帽子から静烏帽子に変わり、中之舞から序之舞に変わります。また舞の途中で義経の行く末を思ってシオル型が入ります。
後シテの装束も変わり、モギドウもしくは狩衣の肩上姿になります。また烏帽子を付けることもあります。一般的には舞働きが無くなりますが、することもあります。出の方法が変わり、半幕にて姿を見せる演出が加わります。

・重キ前後之替
 常の型からの変更点は前後之替と似ていますが、舞がバンシキ序之舞に変わります。
後シテの装束も変わり、モギドウもしくは狩衣の肩上姿になります。また烏帽子を付けることもあります。舞働きは入るのが一般的で、流レ足という特殊な型が入ります。出の方法が変わり、半幕にて姿を見せる演出が加わります。

 

写真は平成4年能尚会で「前後之替」の小書きにてシテ武田尚浩、子方祥照が勤めたものです。
 

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