「心より心に伝ふる花」を目指して
「春日龍神」の舞台展開
ここでは「春日龍神」を6つの場面に分け紹介します。
写真 平成30年 朋之会 シテ武田崇史
撮影 前島吉裕
1、明恵上人一行(ワキ・ワキツレ)の登場
明恵上人(ワキ)と従僧(ワキツレ)が登場し、立ち並びます。明恵上人は更なる修行の為に入唐渡天(中国・インドへ渡る事)を志す事を語り、謡とわずかな動きによって、京都の北西・高山寺から奈良・春日大社にやってきたことを表現します。
2、老翁(前シテ)の登場
明恵上人一行が着座すると、箒を持った老翁が登場します。春日大社のご祭神が遠い神代から私たちを見守り、この国を守護して下さっている素晴らしさを謡います。
3、老翁、上人を引き止める
明恵上人が老翁に話しかけると、老翁は一目で明恵上人に気付きます。明恵上人が入唐渡天の暇乞いの為に参拝に来たと言うと、老翁は春日明神が明恵上人の事を笠置の解脱上人と共に双の眼、両手のように護り、四季折々の参詣を楽しみにしているのだから、日本を去ってしまうのはやめなさいと告げます。しかし、上人が尚も仏蹟を拝む為なのだから、神慮に背くことがあろうかと反論しますが、老翁は釈尊がこの世に居る時ならば天竺に行く価値はありますが、釈尊亡き今、春日山こそ、聖地霊鷲山であると答えます。
4、老翁は春日大社の縁起を語る
さらに老翁は霊鷲山で説法したという釈尊は春日明神となってこの春日山に示現し、その時春日明神は「我を知れ 釈迦牟尼佛 世に出でて さやけき月の 世を照らすとは」との御詠歌を詠まれた事、釈迦が初めて教えを説いたとされる鹿野苑と同様に、この春日野には鹿がおり、仏法繁栄の都であると説きます。そして、渡天を思い留まるならば釈迦の一代記を見せようと約束し、自分は時風秀行と名乗り消えます。
5、社人(間)の登場
社人が登場し、もう一度春日大社の縁起を語ります。
6、龍神(後シテ)の登場
そのうちに土も木も金色に輝き、早笛という勢いのある登場音楽により龍神(シテ)が八大龍王を引き連れて登場し、鷲霊山にての釈迦の説法の様子を再現し、上人に釈迦の一代記を見せ、上人が入唐渡天を思いとどまった事を確認し、猿沢の池へと飛び込み消えます。
●ひとこと解説
本曲のワキの明恵上人は平安末期から鎌倉時代前期の実在した人物で、国宝で有名な「鳥獣人物戯画」を所蔵する高山寺を創建した僧です。明恵は武士の家に生まれましたが、両親を相次いで亡くし、八歳にて神護寺に入寺、十六歳で出家します。優れた才覚が認められ、当時の仏教界最高学府であった東大寺に出仕します。しかし、東大寺の僧達は寺院内の派閥抗争に明け暮れ、一方では僧兵を募って政治に介入する者までおり、その結果として平重衡に焼き討ちされます。こういった僧社会に嫌気のさした明恵は故郷の紀州の山に籠り、釈迦往時の修行こそ聖教の本意であると厳しい戒律を定めて修行を始めます。そして修行を完成させる為には釈迦の歩んだ道を追体験する以外ないと思い、天竺(インド)への渡航を計画します。しかし、明恵の所へ春日明神が憑依した女性が現れ、「明恵は日本で人々を導く存在である。」と、渡天を止まるように神託を下します。(この逸話が春日明神の原典になったと言われています。)これを受けた明恵は紀州の山から京都へ出てくると、後鳥羽上皇より栂ノ尾に所領を賜り、高山寺を創建し、京都の人々に広く仏教を説きました。折しも浄土宗や浄土真宗、時宗など、鎌倉新仏教と呼ばれる新興仏教が盛んになる中で、華厳宗の明恵は南都仏教再興の旗頭として活躍し、それぞれの開祖法然や親鸞、一遍などと並び称される高僧となります。鎌倉幕府執権の北条泰時は明恵を師と仰ぎ、泰時が制定した御成敗式目は明恵の教えを基に作られたと言われています。
この頃インド仏教はイスラム教とヒンドゥー教の台頭によって衰退の一途を辿っており、遂に一二〇三年にイスラム教によってインド仏教の最後の聖地ヴィクラマシーラ大寺院が破壊され、インド仏教は終焉を迎えます。奇しくもこの一二〇三年は明恵上人に春日明神からのお告げが下った年で、もし明恵上人が知らずにインドに行ってしまったら、イスラム教徒によって強い迫害を受けていたと思われます。そういった意味では、春日龍神の老翁は「釈迦がいない今は日本こそ仏教の聖地である」と諭しますが、「インド仏教が終焉を迎えた今は日本に仏教を伝えてほしい」との意味だったのかもしれません。
因みに前シテの正体である時風秀行は、春日大社の御神体のタケミカヅチノミコトが常陸国鹿島神宮より春日大社がある御蓋山に示現した時に随行したと言われる神職です。